Hi! There!
井草 木の子(いぐさきのこ)です。
桜もそろそろ終盤ですね。
先日、念願の目黒川沿いのお花見をしてきました🌸
季節のものや自然に触れるのは、波動があがりますね。
駅に着いたら物凄い人!現地はどうなる事かと思いましたが、
川沿いを歩いていたら、全くその人の多さが気にならないほど
長く続く桜並木の美しさに、テンションが上がりとても癒されました。
桜は、ほぼ一年中茶色の木なのに、年に一回だけピンク色の綺麗な花をたくさんつけますよね。
目で見て、肌で感じて、桜の香りを感じ、心が満たされ、私たちを楽しませてくれます。
私は、この季節の咲いている桜だけではなく、健気に実は一年中この時期の為に、カンカン照りの暑い夏も、凍てつく寒さの冬も、いろんな状況下で、根っこから栄養を吸い上げ、木の枝の細部まで栄養を届け、一年かけてこの時期の為に頑張って準備し、凍える寒さが緩んだこの春に一斉に枝の先に渾身の芸術作品を咲かせる、その健気さを感じるからこそ、より美しいと感じます。
料理で言う、提供するまでに料理人が一生懸命準備し調理し、食する人を思って料理をふるまう。
音楽で言う、人に見せるために絶え間ない練習や経験を積み重ねて、その時にエネルギーを蓄え、精神を整えていい演奏をして披露する。
神社で言う、綺麗に手入れされた樹木やお庭、ピカピカに磨き上げられた境内、神職の方は白い着衣で清らかに、そして神殿は清められ清らかな心で祝詞を奏上し、神聖な空間を作り出している。
人の人生においても同じだと思います。いきなり人生順調な人なんていないと思います。
その裏側の努力があるからこそ、良い状態を作り出すことができる。
その裏側の努力がエネルギーとなって披露するものに付加される。
その努力は人に見せるためでもない。
人はそれを見ていなくても・知らなくても感動するのだと思うのです。
人生も綺麗に咲かせたかったら、その裏側の努力、そして内側の栄養(精神・食)・心技体・環境・空気質など桜と同様に必要でしょう。
それらは最高の未来を描くための秘訣だと思います。
さて、本日は私が本質に向き合い始めたころ、何を始めたのかのお話をしていきます。入り口シリーズです(笑)
それは「瞑想」
寝たきりがだんだんと良くなり外出の機会も増え、収入もできてきたので、それまではもっぱら本などからの学びだったのが、リアルな講座などに参加することも出来るようになっていきました。
とあるエネルギーワーク系のワークショップに参加した際、瞑想の時間があったのです。
*
私はそれまで小学生の座禅体験などを寺院などでしたことはありましたが、恥かしながら、それはただの我慢比べかと思っていました(笑)
喋らずに皆が沈黙しているだけでも何故か面白い。
鼻息が荒い人がいると、それはそれで面白い。
静かにしないといけないから、くしゃみを我慢している人が我慢しきれずに「ぶひっ!」と変な音になってしまったりしたらもう大変!
大爆笑したいけど、それも堪えないといけないのです。
そういうただの我慢比べ大会(笑)
「〇〇するな」と言われれば、逆に〇〇に意識が行くので、余計に〇〇したくなるという心理です。
子供に笑うな、というのは、もう笑いにしか意識がいかないのです。
お坊さんが坊主なだけでも笑えます。
そして足は痺れるし、静かに廊下で正座していたら、たまに和尚さんが
喝ーーーーーっ!という。
邪念だ!とか言われるやつです。
まぁ、子供ってこんなもんでしょう。(違うか?笑)
そんな落ち着きのない子供だったのです。
*
というわけで、瞑想をしてみようなんて大人になっても思ったことはありませんでした。
話は戻って、そのワークショップでの瞑想は誘導瞑想で、瞑想中に語り掛け、意識の持って生き方(内面)の誘導をしていただけます。
私は内心「あー瞑想!苦手なやつ!きたー!別に瞑想のワークショップに来たわけじゃないのに、瞑想するの~?嫌だな~!」という感じ。
実際、その誘導瞑想は”深呼吸をして~。あなたの内側(の感情)を見ていきましょう~”というような、一般的によくあるやつだったとは思うのですが、実際にその瞑想に入るや否や
私はなんと内側を見るということが怖すぎて、号泣してしまったのです。
この反応は何?????
と、自分が一番びっくりしてしまいました。
これは、なにか相当な問題があるぞ!!!!!というのだけは、確信しました。
どうも、心が疲弊するような状況が続いていたのだと思います。
それを機会に私の場合、”瞑想にキーポイントがある”のは間違いなさそうであったため、瞑想のやり方を学びたいと思ったのです。
逆に、こんなに怖くて泣いてしまうような人が自己流でやるのは危険だとも思いました。
というわけで、瞑想が学べるものを探したのですが、調べても調べても、瞑想がメインのセミナーなどは、どこか洗脳っぽくて、新興宗教っぽくなっているように感じました。
怪しすぎる・・・ではないか・・・。
前にもお話ししましたが、私は宗教とねずみ講へのセンサーが発達しています(笑)
実際にねずみ講ではなかったとしても、その構図に似た類似商法も大嫌いなのです。
人の弱みに付け込んで不安を煽るような新興宗教も嫌いなのです。(※純粋な信仰心としては、宗教にも良い側面があるのも事実です。)
その頃私は、英語力を更に日常的に使えるように、また寝たきりで弱り切った体のケアと体力増強目的で運動をしたかったのですが、時間をどのようにして作るかを試行錯誤していました。
そこで、アメリカ人のインストラクターが教えるヨガ教室を見つけ、
これなら英語も運動も出来るし一石二鳥!!という事で、こちらの門をたたきました。
場所の気もよく、和風古民家を綺麗に改装して、気持ちの良い無垢の木の広い床のスタジオ。しかも床暖房付き!運動するだけならどこでもいいかもしれませんが、この空間にいる事が気持ちがいいのです。
気持ちのいい空間で体をのびのびと動かすことで、心までのびのび出来る感じ!!
心に目を向け始めている私は、この感覚を大切にしたいと思いました。
その先生はポーズを取るだけのヨガではなく、ヨガの教えを用いた物事の考え方や捉え方を対話形式で日常の疑問などを交えて話す事にも重きを置かれていました。そしてアドバンスクラスとしてヨガ哲学とヨガ瞑想をトータルで学ぶコースを新設されたので、弟子入りすることにしました。
なんでも体を動かすヨガは、実は”瞑想に集中するためのものである”という事を教わりました。
瞑想中に、腰が痛いだの、肩が痛いだの、良い姿勢が保てないなど、そういうのがあると、そこに神経が行ってしまい気もそぞろで瞑想に集中できないとのことでした。
確かに!!私はずっとそんな状態ではないですか!なんと奥が深い!!
そして、瞑想を学んでみたい私にもピッタリだったわけです。
これが私と瞑想の本当の出会いです。
これがきっかけで、本質へ目を向ける事がどんどん加速するのでした。
例えば「周りの音や、人の会話が気になって瞑想に集中出来ない」という悩みがありました。
「私の事を邪魔している」「その音があったら瞑想できない」と考えがちですが、先生の教えによると
「これは今、私を瞑想に集中して取り組むために発生している音。
この音がある状態で自分への意識を保つ練習をしている。
むしろ練習になっているわけ。これによってよりその力が強くなる」
このように受け取るという事なのです。
例えば瞑想中に、目の前の道路に幼稚園児がキャーキャー言いながら通ったとしましょう。
普通ならうるさくて瞑想に集中しにくいですよね?
そこで”園児の声”に意識が行った、その意識の対象を意識的に”自分”に戻す。
そうすることで、意識が自分にあるので、その音がだんだんと気にならなくなる。
という内面の変化なのです。
人は五感を使って生きている。目を瞑る事で視覚を閉ざすと、他の感覚が上がる。
だから、聴覚がより敏感になり意識がそちらに行くのは自然なことなのです。
ほほう。まるで仙人みたいだな、と。(笑)
この考え方を取り入れることで確実に、瞑想に入れるようになっていきました。
ハードルを低く1日1分でもいいから習慣化するようにということで、継続できるようになり、徐々に時間を長くしていきました。
瞑想することで余計に心がザワザワしていた私が、瞑想をすることでザワザワを減らせるようになっていったのです。
同じ瞑想なのに、この違いって何なんでしょう!!
瞑想に出会っていなければ、今の私はないといっても過言ではありません。
本質を見ていく上で、瞑想がスタート地点といえるほど、大事だと思います。
弟子入りした割には、諸々の事情で半年もしないうちにやめる事になってしまったのですが…。
きっと私はこの瞑想に入ることが必要であり、それ以上は自分の探求に充てるように流れていたのだと感じています。
いかがでしたでしょうか?
瞑想をすると、今心が何に意識が向いているか、自分の状態を知るのに役立ちます。
情報過多の時代、意識的に情報を取捨選択しないと、どんどん自分軸をゆがめてしまう情報にさらされてしまいます。
本質に目を向けると、最高の未来に必要なものは、自分の中にあると気付けるかもしれませんね。
それでは本日は、このへんで。
お読みいただきありがとうございました。